-大蛇山の由来-


大蛇山の由来

大牟田で育った方なら、一度とはいわず、何度も「大蛇山」という言葉を聞いてきたことでしょう。そう、大牟田の祭りと言えば大蛇山です。しかし、なぜ「大蛇山」っていう名前なの?という質問をされると、戸惑ってしまいます。答える事のできる人はすくないのではないでしょうか。そういう私も、その質問に明確に答える事はできません。それに、そのことについてはっきりと書いてある文献がないので(あるかもしれませんが)、大牟田の歴史や民話を参考に、推測していくしかないかと思います。

今から書くことは、私の偏見と想像、それにちょっとした参考資料に基づいて考えるもので、決して歴史的史料に基づいたものではありません。飽くまでも、私の推測(妄想)に過ぎませんので、暇な時にでも流し読んで頂けたら幸いに思います。

大牟田にはその昔、巨木伝説が存在しました。その巨木の高さは970丈(2939.1メートル)で、朝日の影は佐賀県の多良岳を覆い、夕日の影は熊本の荒爪山を覆ったと云います。

しかし、そんな巨木は存在する訳がなく、この伝説はこの地方が近隣諸国の中心であるという、在地部族の優位意識から成り立った伝説であると考えられます。

彼らは、自分達の国を「御木の国」と呼びました。

時は流れ、農耕が栄えるようになってきました。次第に言葉は訛り、「御木(ミキ)」は「三毛(ミケ)」と発音されるようになりました。

この頃から、巨大な影を作る巨木伝説は、農耕が盛んになった今では邪魔になり、伝説の上でも切り倒される事になりました。

開墾が進むにつれ、巨木信仰は次第に水源信仰へと移り変わっていきました。水源信仰として、信仰の対象となった三毛の山は、神聖な場所とし、人々から恐れ、崇められるようになりました。

ある時、この地方に大きな地震があり、三毛の山に大きな窪みが3つ出来ました。それを知った後鳥羽天皇は、「三毛」を「三池」と改名するよう、勅命を出しました。

この時の話が、民話「ツガニの恩返し」として伝承されています。

水源信仰は、次第に天候を司る神として、龍神信仰に推移し、農耕民族の信仰の対象である「霊峰三池山」は、龍(大蛇)の住む山としてさらに崇められるようになったのではないでしょうか。

そして、人々は龍神(大蛇)を象った偶像を作るようになり、人々は龍神を信仰の対象にしていったのではないかと思います。

現在の大蛇山でも、山車には草木をたくさん付けています。これは山車自体を山に見立て、山の中から龍神(大蛇)が顔としっぽを出している構図に見えて仕方がありません。

これは、三池山に住む龍神(大蛇)が姿を現したものを具象化しているのものではないでしょうか。

藩から御前山を贈られた時、三池に住む人々は、元来よりあった龍の偶像と、山車を掛け合わせた祭りをするようになり、それが後に「大蛇山」と呼ばれるようになっていったのではないかと私は考えます。

参考年表

713            「風土記」に三毛郡の歴木伝説が収録される。

720            「日本書紀」に「御木」の名がみえる

建久三年  (1192)  三池山頂、山津波(地震)により三つの池が出現。

                  後鳥羽天皇の勅命により「三毛」が「三池」に改名される。

天保十五年(1587)  立花直次が江の浦に城を構える。

寛永十四年(1637)  島原の役で三池藩兵は原城一番乗りを果たすが、一万五千の細川勢の九曜旗に隠されて、三池藩の唐団扇旗は見えなかった。

一番乗りを認められなかった無念さを晴らす為に「大蛇山」の祇園祭が栄えたとする説もある。

1600           立花宗茂、柳河城を開城。

1621           立花種次が、三池藩主となる。

寛永十七年(1640)  三池新町に祇園社が観請される。

延宝二年  (1674)  三池藩が、橋上通水の早鐘眼鏡橋を架橋。このとき、御前山を下賜されたと伝えられる。

1762年                  立花種周が、三池藩主となる。

1806年                   三池藩立花氏が奥州の下手渡へうつされる。

 1851            下手渡藩立花氏に三池郡の一部がもどされる。

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